岡本太郎の死因は?芸術家らしい個性的な生涯に憧れる人が続出

岡本太郎の死因は?芸術家らしい個性的な生涯に憧れる人が続出

「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」で有名な岡本太郎。日本だけではなく世界中に知られるファンの多い芸術家として生涯精力的に創作活動を行っていました。現在、日本や世界で活躍する芸術家の中にも岡本太郎に憧れたという人が多くいます。本記事では岡本太郎の晩年や最期(死因)について語っていきます。

岡本太郎の晩年は?

漫画家岡本一平と小説家・歌人の岡本かの子の芸術一家に生まれた岡本太郎。
若い頃は東京美術学校に進学し、家族と一緒にフランスで10年過ごしたという経歴を持っています。フランで、パブロ・ピカソの作品と出会ったことがきっかけで絵画に没頭するようになりました。
太平洋戦争に参加していましたが終戦後はすぐに制作活動を再会しています。その後は、絵画・陶板壁画・彫刻など、様々な作品を発表しました。
そんな岡本太郎は1950年代からテレビにも出演していたこともあり、老若男女から人気を集めていました。晩年になっても精力的に創作活動を続け、展覧会への出品をしていました。ですが、80歳の頃に、自身が所蔵する作品のほとんどを川崎に寄贈し、市は美術館建設を計画することになりました。

岡本太郎の最期(死因)は?

1996年1月7日、84歳で岡本太郎はこの世から去ってしまいます。
死因は以前から患っていた「パーキンソン病」による「急性呼吸不全」でした。生前から「死は祭だ」と語っていたことや岡本太郎が葬式を嫌っていたことから葬儀を行わず、翌月の2月26日にお別れ会「岡本太郎と語る広場」を草月会館で開きました。墓所は多磨霊園にあり、1967年に制作した「午後の日」の複製が墓石として据えられています。

死後に与えた影響

岡本太郎の死因と死後に与えた影響

岡本太郎は死後も数多くの影響を世間に与えました。
1998年に青山にあった住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開、1999年に川崎市岡本太郎美術館が開館。さらに、2003年には30年間行方不明になっていた「明日の神話」が発見され再生プロジェクトにより修復したものが渋谷マークシティ内連絡通路に恒久設置されています。
また、定期的に岡本太郎の展示会が開催される、メディアで特集される、映画「太陽の塔」が制作されるなど、死後も多くの人に親しまれています。

まとめ

芸術家だけではなく、テレビタレントなど様々なジャンルで活躍し続けた岡本太郎。
彼の死因はパーキンソン病による急性呼吸不全だったようです。数え切れない人が訃報にショックを受け、悲しみに暮れました。しかし、死後も生涯や生き方、思想や作品と岡本太郎は多くの人の憧れとなっています。